御祭神は武甕槌神。
天正13年(1585)創建もしくは再建。
津軽初代藩主の為信公の命により、西浜代官を勤め、また、中村の新田開発に当った斉藤掃部之介が武運長久・五穀豊穣祈願のために、天正13年に訪れたことに由来します。
以来、村中で崇敬され、社殿の再建・修理をしてきました。
貞享4年検地水帳によりますと、毘沙門堂地、熊野堂地がみえ、この毘沙門堂が当神社かと思われます。
正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、当社の名は見えませんが、一祀として村民が守り続けてきました。
明治5年に中村久須志神社に合祀するも後に復社。
本殿。
手水舎。
狛犬一対。
一の鳥居の横にあった弘法大師像。
末社群。
すべて稲荷宮。
馬石像(昭和10年旧6月17日)。
本殿の裏手の方にも祠が見えます。
この祠だけが離れた場所にあります。
中には紅白の布で包まれた石らしき物が丁寧に奉納されていました。
私が事前に調べた内容とほぼ同じですが一応案内看板の内容も記しておきます…香取神社の由緒と祭神『津軽初代藩主為信公の命によって西浜代官を勤め、中村の新田開発にあたった斎藤掃部介が、武運長久・五穀豊穣祈願のため、当社を建立したのが天正13年(1585)と伝えられている。以来村中でこれを崇敬し社殿の再建や修覆をしてきた。正徳元年(1711)の「寺社領分限帳」に当社の名がないが、察するところ一祠として村民が守り続けていたものであろう。明治初年の神社統廃合によって「香取神祭神布津主命 浜横沢支村小野畑より遷し奉る」となって、中村久須志神社に合祀された。後に旧に復して再び小野畑に祀られ、明治15年4月20日寄棟造り9坪の拝殿が再建され、さらに明治41年4月15日、1坪5合の流破風造りの本殿を再建、今日再び氏子長年の宿願だった拝殿の再建が成就した。現在の祭神武甕槌神は、布津主神と共に、天孫瓊瓊杵尊の降臨に先立ち、天照大神の命をうけて、出雲の大国主命、諏訪の建御名方命らを従えたと伝えられている。このことによって両神は武神として、とくに東国地方の武士の信仰が厚かったという。例大祭8月3日 新嘗祭11月3日 祈年祭5月3日』。