深山神社 (鯵ケ沢町中村町)
県道3号線を走っていると、大宮地区付近の田んぼの向こうに赤い鳥居が見えます。県道から離れていますが神社付近まで車で行くことができます。御祭神は金山彦神、金山姫神、植山比売命。金山彦神・金山姫神は鉱業や鍛冶の神で、植山比売命は土を司る神です。貞享4年検地水帳によりますと薬師堂地、山神社、熊野堂地、稲荷社地がみえます。永禄年間(1558-1570)創建の深山宮は寛政5年(1793)に深山神社となりますが...
View Article水沼保食神社 (南津軽郡藤崎町水沼)
かつての水沼村。東は小阿弥堰より分水する深味堰を境に矢沢村、西は五林村、南は藤越村、北は中野目村に接します。天文年間(1532-1555)の津軽郡中名字には「溝沼」とあります。御祭神は保食神。創建は不詳ですが、...
View Article稲荷神社 (黒石市大川原)
弁慶マタギ伝承の地。江戸時代には木樵・炭焼などの山仕事を主業として、農業やマタギを副業としており、大川原のマタギは黒石陣屋に熊皮と胆を納めていたそうです。また、県無形民俗文化財である大川原の火流しでも有名です。火流しは御醍醐天皇の第三皇子宗良親王を長年に渡りかくまった信濃の豪族香坂高宗の子孫が、戦いに敗れて大川原に落ちのびて、南朝方戦死者の慰霊と故国を偲び、約600年程前に始めた精霊流しが起源となっ...
View Article薬師神社 ・ 久須志神社 (鯵ヶ沢町松代町)
かつての松代村。岩木山・土倉山の麓の町です。猿あたりは普通に現れます。菅江真澄は「雪のもろ滝」の中で、『岩木山を左方に見て、土倉という長い坂を下ると、荒川の流れを近くへだてて、山田をつくっている芦谷萢という村が見え、松代で昼食をとって休んだ。なべこわし石を経て、若い男女が恋のうらないをする鍵かけのかぎのかかっている梢が、冬枯れて立っていた』と記しています。土倉橋。橋の横にある地蔵堂と百万遍(紀年銘明...
View Articleチェスボロー号記念公園 ・ 高山小公園展望台 (つがる市牛潟町)
高山稲荷神社境内入口の手前にあります。チェスボロー号遭難慰霊碑はアメリカの貨物船チェスボローが明治22年10月に七里長浜沖で座礁大破し、船長以下19名の乗組員が亡くなった時のもの。明治24年に柏山の墓地に建てられましたが、昭和45年に現在地に移転。チェスボロー号遭難時には村民の献身的な救助活動がありました。チェスボロー号遭難慰霊碑について…『この慰霊碑は、明治22年10月、交易で来航中の米船チェスボ...
View Article諏訪神社 (諏訪明神) ・ 岩木村役場跡 (弘前市宮地諏訪林)
御祭神は武甕槌命。正保2年(1645)、3代藩主津軽信義が勧請。元禄3年(1690)には駒越組に属しています。同年諏訪明神の神官佐々木常陸が寺子屋を開設。宮地及び諏訪林の地名は諏訪明神の所在地に由来するといいます。元禄16年(1703)に4代藩主信政が領内に薬草の植付けを行いましたが、宮地村には朝鮮人参が植えられたそう。天照皇大神宮が彫られた石碑。手水鉢。上から見たら手水鉢自体も彫られた穴の形もハー...
View Article熊野宮 (深浦町黒崎)
御祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神。貞享4年検地水帳に熊野堂地がみえます。この附近は玉川館跡地(工藤氏)のようです。寛永年中(1624-1642)、村中安全のために建立と伝えます。※青森県神社庁HPによりますと草創不詳。破損の際にはその都度村中にて再建。国誌によりますと、相殿として境神・稲荷神2・白神山神・武甕槌神・神明宮を祀っています。当時の本殿は3尺4方と小さく、雨覆いは建坪2間半4方、この中に本殿...
View Article少名彦神社 (黒石市板留)
板留村の北の山手に鎮座する少名彦神社。御祭神は少名彦命。南津軽郡是によりますと、宝永元年(1704)勧請。明治初年の国誌には寛永年間(1624-1645)の創建とあり、宝永元年再建ということでしょう。明治以前には薬師如来も安置しており、薬師様とも呼ばれていたそう。明治6年に中野神社が板留村から少名彦神、大川原村から稲荷神を遷して相殿としていますが、後に復社。三頭木。御神木。手水舎。寛永元年8月、花山...
View Article駒形根神社 ・ 骨寺村荘園遺跡 (岩手県一関市厳美町)
神社前の駒形橋に狛犬二対。一の鳥居の額束には駒形山とあります。神社前にたくさんの石碑がありました。周囲からここに集められたもので、種類は様々でした。「行山鹿子踊供養」「馬頭観世音」「南無阿弥陀仏」「古峯山」「山神供養」「馬櫪神」「雷神」などなど。石段横にもたくさん。手水舎。横向きの狛犬一対。尻尾が個性的。鐘楼がありました。長閑な風景に響き渡る鐘の音…気持ちよかったです。厩舎。神楽殿。駒形根神社は荘園...
View Article十和田神社 ・ 十渡明神宮 (青森市西田沢)
かつての田沢村で、青森湾に位置し、東は青森平野、西は梵珠山地にまたがります。西方の田沢森東麓に十湾(とわだ)神を祀る十渡明神宮が見え、それが当十和田神社です。十湾は雨乞の竜神と云います。200年近く前に竜神が現れて祀ったと伝えます。小舘衷三氏の『水神竜神十和田信仰』によりますと、『社前にやはりサンゴの小池がある。村の老人にいわせると山の長もの(蛇)を祀るのだという。雨乞の時は村の人たちが社前で盆踊り...
View Article香取神社 (鯵ケ沢町浜横沢町)
御祭神は武甕槌神。天正13年(1585)創建もしくは再建。津軽初代藩主の為信公の命により、西浜代官を勤め、また、中村の新田開発に当った斉藤掃部之介が武運長久・五穀豊穣祈願のために、天正13年に訪れたことに由来します。以来、村中で崇敬され、社殿の再建・修理をしてきました。貞享4年検地水帳によりますと、毘沙門堂地、熊野堂地がみえ、この毘沙門堂が当神社かと思われます。正徳元年(1711)の寺社領分限帳によ...
View Article左堰稲荷神社 (青森市左堰字大科)
松前街道沿い。立派な注連縄です。参道の木々がいいですねぇ。貞享4年検地水帳及び安政2年神社書上帳によりますと稲荷社地が見えますので、それ以前の創建と考えられます。明治初年に小橋村稲荷神社に一時合祀され、後復社。御祭神は倉稲魂命、大宮能売命。屋根付の狐様。社殿横の小高い丘の上にポツンと末社。青面金剛童子。ブログ村ランキング参加中
View Article寶龍権現 ・ 宝龍宮 (深浦町風合瀬)
風合瀬の宝龍権現です。御祭神は海津見命、大国魂命、保食神。創建年月日は不詳。安政2年神社書上帳にその名が見えます。風合瀬の部落ができた頃には既に存在していたと伝え、相当古いものであると言われています。また同地区にある稲荷神社はここから遷されたものであるといわれます。ブログ村ランキング参加中
View Article泉神社 (五所川原市金山)
かつての金山村で貞享4年検地水帳によりますと、小字にいつみとあります。また、古館2ヶ所の他、八幡社地、雷電社地、大日堂地があります。上記雷電社が当泉神社と考えられます。創建は不詳。御祭神は別雷命。明治6年4月金山天満宮に合祀、同年同月村社。昭和8年8月17日指定神社に列格。大正元年7月に本殿、幣殿改築。昭和9年11月25日拝殿改築。本殿。本殿の脇に小さな鳥居と祠がありました。末社稲荷宮でした。お供え...
View Article神明宮 (田舎館村垂柳)
御祭神は天照皇大神。かつては修験弥勒院抱えの日月堂(日天月天堂)。創建は寛永元年と伝えます。垂柳と枝川両村の氏神として崇敬された神体仏号の神社。明治4年の神仏分離の際に神明宮に改称。大同2年(807)、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に来た折、神仏の加護を受けんとして百余りの神社を建立して祈願。日月の絵を書いた軍旗に改め、見事蝦夷を討ち平らげることができたとし、その際に清浄の地を選んで軍旗を置いたのが垂柳と伝...
View Article鮫洲八幡神社 (鮫洲明神 ・ 御林八幡宮 / 東京都品川区東大井)
御祭神は誉田別尊、気長足姫尊、伊装諾尊、伊装冉尊。古くは鮫洲明神、御林八幡宮等と称せられていたそうです。創建不詳ですが、寛文年間(1661-1672)以前に旧御林町の総鎮守として創建されたと推測されています。明治の神仏分離以前には常林寺(来迎院)、来福寺が隔年持にて奉仕。元文3年(1738)修復遷宮、文化10年(1813)再建。現社殿は昭和47年造営。こちらの手水舎は彫刻が金網で保護されていてうまく...
View Article熊野宮 (深浦町驫木)
驫木村の産土神として崇敬されている熊野宮。御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命。勧請年月日不詳。延宝5年(1677)村中再建。明治6年村社。本殿。狛犬一対。拝殿の蟇股(彫刻師中村隆造)。昭和35年8月部落一同奉納。木鼻。疱瘡神的な石。ブログ村ランキング参加中
View Article白山神社 (青森市浪岡大字杉沢)
地内上福田にあります旧村社の白山神社。鶴田の産土神。右側はすぐ車道となっていて、ちょっと狭い参道・境内です。百万遍。手水舎。参道に狛犬二対。御祭神は伊弉諾命、伊弉册命。菊理媛命は祀っていないんですね。延宝5年(1677)、高屋敷村中にて創建。寛保2年(1742)上様御安全、五穀成就、村中安全のため、村中にて再建。一時、高屋敷村の旧村社神明宮に大石神・加茂神と共に合祀。宝暦13(1763)年10月、寛...
View Article大山祇神社 (鯵ケ沢町鬼袋町)
旧村社大山祇神社です。山へ登ります。石段の高さや幅が合わないのか…距離はありませんが足にきました。御祭神は大山祇命。かつては山神宮と称しており、文録3年(1594)、村中が山中安全のために勧請と伝えます。旧村社。菅江真澄が次のように記しています…『浜横沢を出立して、長間瀬、横山、羽立(派立)、小野畑などという村々が見えた。鍵かけ坂をひとつ越えてきて、黒森をさして、湯にかよう路を横切って長坂をのぼると...
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