弘前市内寺院の移転前跡地 (作成中)
寺跡地にはきちんと記念碑等が建立されていることが多いと気づきました。探しているというわけではなく、偶然発見することが多いので、こちらの記事については少しずつ書いていこうと思います。碑についての情報も頂けたら嬉しいです。【禅林街】太平山 長勝寺(鰺ヶ沢町種里町→弘前市賀田字大浦)太平山 長勝寺2長勝寺跡地長勝寺跡地2蟠竜山 隣松寺(弘前市賀田→西根地区・平川市尾崎)隣松寺跡地嶺応山...
View Article駒田久須志神社 (つがる市木造越水)
かつての駒田村。元は玉清水村といい享保11年(1726)に駒田村に改称しています。元禄元年(1688)村中安全・五穀豊穣を願って建立。元文元年(1736)陸奥国津軽郡御検地水帳に薬師堂地が見えます。明治3年に薬師堂は神仏分離によって久須志神社となりました。拝殿というよりも普通の建物っぽいですね…と思ったら、木造町駒田集会所となっていました。拝殿前にあった額束。本殿。手水舎。御神木。末社。日支事変祈念...
View Article清水坂 (八幡山児童遊園 / 東京都北区中十条)
坂下西側には八幡山公園、東側は路線が南北にのびる低地。坂上は環七通りに交差します。途中の湾曲が美しいですね。坂は稲付と十条を結ぶ江戸期の岩槻街道にかかります。岩槻街道は旧日光御成道で、王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州道中の街道です。将軍日光社参(4月17日の家康年回忌などに日光東照宮に参詣すること。)の際に将軍一行の華やかな行列が通るため、五街道についで重要視された道。昔の清水坂はその...
View Article若宮八幡神社 (東京都北区中十条)
清水坂を下ると左手に八幡山児童遊園があります。崖を削りとられて作られた児童公園はかつての貝塚遺跡であり、公園内の崖上へと登って行きますと若宮八幡神社があります。御祭神は誉田別命(応神天皇)。御神格、文武の神。『ここは八幡山と呼ばれております。古老から聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(1716-1736)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して、創建したとのことです。(現存の記録は明治18年6月が...
View Article四所神社 (つがる市木造出来島)
御祭神は保食神(宇気母智神)、多紀理比売命、多紀津比売命、市杵島比売命。4柱を祀ります。最初は所謂津軽四社の1つである広瀬宮かと思っていたのですが、4柱を祀ることから四所神社とのことです。寛永3年(1626)村中安全開発成就のために草創された四所明神宮。青森県神社庁HPによりますと万治2年(1659)創立。宝暦9年(1759)神社書上帳には四所宮とあります。明治9年に四所神社に改称。本殿。鳥居・狛犬...
View Article稲荷神社 (青森市桑原)
御祭神は稲荷大神。参道の途中にちょっとした公園があります。貞享4年(1687)検地水帳によりますと稲荷社地、宮無之とあります。安政2年(1855)神社書上帳によりますと、稲荷宮一宇、往古建立年月不詳、享保19年(1734)村中で五穀成就のため再建。明治初年には一時、諏訪沢村の諏訪野神社に合祀。社殿内。社殿内にあった由緒。一、原始時代。二、部落の盛衰の沿革。三、寛文4年(1664)の古文書。菅江真澄が...
View Article横浜赤レンガ倉庫 ・ 象の鼻防波堤 ・ 鉄軌道と転車台など (神奈川県横浜市中区)
桜木町付近。日本丸メモリアルパークにある横浜船渠株式会社エアー・コンプレッサー(1918年・ニューマチック・ツール社(アメリカ)製)。『このエアー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業㈱横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほぼ中央にあった動力室に4基設置され、1983(昭和58)年に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リ...
View Article龍田神社 (深浦町田野沢)
一之鳥居横にある案内看板より…『奈良県生駒郡三郷町立野に鎮座する龍田大社は、天御柱命・国御柱命二神を祀る。大和盆地に吹き込む西風の入口にあたる龍田の地に、竜巻の旋風を天地間の柱と見立てた風の神を祀って、農作物の風害がないことを祈ったものである。田野沢の龍田神社はこの二柱に加えて、吸長津彦命、吸長津姫命の男女の風神四柱を祀っている。「奥富士物語」(天下四名君の一人と称された四代藩主信政公の事蹟を詳しく...
View Article月夜見神社 (深浦町舮作)
御祭神は月夜見命。創建年月日不詳。かつての艫村で、安政2年神社書上帳によりますと寛文元年(1661)再建の月山権現(月屋村艫作権現宮社地)が地内清滝にあります。同社は延宝年間(1673-1681)村中再建とも伝え、現在の社地とは違う場所に鎮座していたようです。神仏分離によって明治6年から同10年までは深浦村の貴野神社に合祀、明治10年復社。明治6年に月夜見神社に改称しています。菅江真澄が外浜奇勝にて...
View Article稲荷神社 (新町稲荷 / 深浦町深浦岡町)
関連記事『御仮屋(無為館松嵐)・廣田家住宅・元若狭屋竹越里圭家他(深浦町)』『下口稲荷神社 ・ 留土坂 & 新坂 (深浦町)』こちらが通称新町稲荷かな。違っていたらすいません。御祭神は倉稲魂神・保食神。御仮屋のすぐ近くに鎮座しております。向拝下の蜘蛛の巣がひどく、社殿内にて拝むことはできませんでしたが、窓から正一位稲荷という幟が見えました。「文化7年9月 願主...
View Article八幡宮 (藤崎町西中野目)
神社入口に大きなイタヤカエデがあります。かつての西中野目村。貞享4年検地水帳には三之太夫抱えの観音堂地4畝余が見えます。八幡宮は延暦年間(782-806)に坂上田村麻呂の創建した108社の1つであり、古館村・俵升村・中野目村の境にあって正観音を祀ったそう。この付近10ヶ所(館野越・滝井・俵桝・下俵桝・柏木堰・中野目・五林・西中野目・亀岡・吉向)の産土神であり、後に氏子協議の上で亀岡村へと遷ります。正...
View Article三社神社 (青森市前田中野)
すぐ近くの奥内の三社神社と混乱します。遠くから見ると鎮守の杜の雰囲気も似ていて間違う可能性もあります。明治初期の神仏分離の折、瀬戸子村の牛頭天皇と奥内村の蔵王宮及び末社神明宮を合祀して三社神社と改称。奥内の三社宮の分霊を昭和19年に勧請して氏神としたようです。御祭神は天照皇大神・豊受大神・大宮能売神。しかし狛犬の台座には昭和15年8月5日とありました。ここの境内の御神木は不自然な曲がり方をしています...
View Article東郷神社 (東京都渋谷区神宮前)
御祭神:東郷平八郎命例祭日:5月28日御社殿:神明造り76坪境内地:8400余坪(27,720㎡)原宿竹下通りのすぐ近くに鎮座(竹下通り側は北参道)。由緒沿革…『東郷平八郎命は弘化4年(1847年)薩摩藩士東郷吉右衛門の四子として鹿児島市加治屋町で生まれ、昭和9年(1934年)5月30日88歳で東京麹町三番町で薨去されました。明治4年(1871年)24歳のときに英国留学7年間海軍士官としての修業をつ...
View Article八幡宮 (弘前市龍ノ口)
龍ノ口に鎮座する八幡宮。かつての竜ノ口村で、北東は真土村、北は二本木村、西南は鳥井野村に接し、南は岩木川を挟んで悪戸村に相対します。御神馬一対。手水鉢。石灯籠一対と狛犬一対。参道が左にカーブしています。更に御神馬。御祭神は誉田別尊。安政2年神社微細調社司由緒書上帳によりますと「駒越組、龍口、産神之社、八幡宮、壱宇。右、草創年月相分り不申候」とあります。...
View Article上十川八幡宮 (黒石市上十川)
かつての上十三村。貞享4年検地水帳によりますと、常是院抱えの八幡堂社がみえますが当神社との関連は不明。上十川八幡宮の御本尊は大杉村大字徳妻子村(現青森市浪岡大字徳才子)に所属していたそう。御本尊と境内が失われた後、十川村の岩間彌五兵衛の親に度々枕神が立つことから、天和元年に彌五兵衛が徳妻子に出向き、境内があったと思われる場所から石仏一体を発見。天和元年(1681)、十川村に社壇を建立し石仏を祀ったと...
View Article八幡宮 (深浦町森山)
森山村集落は森山館の北側崖下から北に海岸に沿って発達。西側は海に面しています。場所は民宿「汐ヶ島」の裏手になります。この汐ヶ島は美味しい料理と店主のおもてなしにより、大変評判が良く、大人気の民宿となっているようです。いいなぁ~泊まりたいなぁ~。さて、八幡宮の御祭神は誉田別尊。延宝年間(1673-1681)に五穀成就と村内安全を祈願して建立。破損の際には村中にて再建してきました。庚申塔。末社と石灯籠一...
View Article貴野神社 / 愛宕神社 (深浦町深浦岡町)
地図では愛宕神社となっていました。俗称愛宕様として親しまれているようです。岡町の産土神。御仮屋(無為館松嵐)の近くです。御祭神は軻遇突智命。寛文2年(1662)もしくは延宝4年(1676)村中にて勧請。貞享4年検地水帳によりますと、荘厳寺屋敷、宝泉寺屋敷、浄念寺屋敷、大善院屋敷、神明宮、白山権現堂山、地蔵堂、六所権現堂、熊野堂、稲荷社が見えます。かつては地蔵堂だったようです。延享年中(1744-17...
View Article男坂 ・ 女坂 & 東京音楽大学発祥の地 (東京都千代田区猿楽町)
男坂です。神田駿河台と猿楽町の間に位置する坂道。猿楽(後の能楽)は室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれ、なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ観世座は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町1・2丁目から西神田1・2丁目付近にあったことから、この一帯に猿楽町という名が生まれたそう。江戸時代は主に武家屋敷が軒を連ね、元々武家地には町名が付けられ...
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